禅の里 永平寺









トップ画像は、参道と柏樹関(9月14日現在)

禅の里永平寺だより

「永平寺参道復元にあたり」


 「五十丁山に入りて永平寺を礼す。道元禅師の御寺也。邦畿千里を避けて、かかる山陰に跡をのこし給ふも、貴きゆへ有りとかや。」と松尾芭蕉翁が『奥の細道』において記述されている、永平寺参道が平成30年の今夏、凡そ90年ぶりに旧に復しました。
 1244年、永平寺はその前身である大仏寺として道元禅師様によって開創されました。現在、永平寺において管理保存している1600年代最古の境内図(図参照)等の資料から推測すると創建当時から近代までは永平寺川沿いを参道として御開山様を慕う多くの参詣者を迎えてきました。


吉祥山永平寺全図(紙本墨画淡彩 江戸時代(十七世紀))

『永平寺史』に記載されている歴史を遡ると、明治維新以降に永平寺境内は参道も含めその様相を大きく変えてきています。


福井から永平寺に至る参拝道路が改修
― 六十三世滝谷琢宗禅師代 ―

 明治の頃は、まだ福井~永平寺間の電車はありませんでした。その為、参詣者は、福井から4里(約16キロメートル)の道を徒歩で参拝していましたが、途中には百メートルの高低差を擁する峻嶺の越坂峠、そしてその前後には、二十町(約2キロメートル)の険路を抱えており、人力車も通行ができず参詣者は難渋していました。
 琢宗禅師様はこのことを深く憂い、時の大本山總持寺貫首畔上楳仙禅師様と諮られ全国寺院、檀信徒に告諭を発して改修寄附を募り、総事業費が現在の凡そ3億円相当、明治20年9月着工、凡そ2年間の工事期間を経て福井から現在の門前~龍門に至るまでの参拝道路の完成をみました。
この工事施工にあたっては、福井県内の篤信者、特に福井県二代石黒務県令(彦根藩出身)にも協力を得ての完成でした。


[明治42年頃] 龍門の様子


[明治42年頃] 龍門から唐門を見る


二代尊650回大遠忌

 大正から昭和にかけ、主要な交通機関として鉄道が活躍しました。大正14年に永平寺鉄道が永平寺駅(現えちぜん鉄道永平寺口駅)~永平寺門前駅を開業。昭和4年には金津(現あわら市)、丸岡(現坂井市)と永平寺を結ぶ路線が開通、発展していきました。
 昭和5年には、六十七世北野元峰禅師様により二代尊650回大遠忌が奉修されます。大遠忌奉修にあたって数々の記念事業は計画されましたが、その一つに永平寺門前駅から本山までの県道の改修工事がありました。この改修工事は、昭和4年の秋に完成をみます。


[昭和5年頃] 愛宕山から門前を見る


[昭和5年頃] 半杓橋から門前の通りを見る


[昭和5年頃] 龍門の様子


高祖大師700回大遠忌

 昭和27年、七十三世熊澤泰禅禅師様により高祖大師700回大遠忌が奉修されます。第二次大戦終戦から7年の期間しかない中にあって多くの記念事業が計画されましたが、その一つに永平寺観光道路の整備事業がありました。
 大型バス乗り入れが自由になる道路の必要性から道路幅を4.5メートルに広げるもので、福井県当局の主導により東古市から永平寺門前に至る延長6652メートルの距離が整備されました。この工事は、昭和25年度より2ヵ年事業として国庫の補助を仰ぎ、大遠忌直前に竣工しました。
 総工費は現在の凡そ7億5000万円相当、工事就労者は延べ6万5000人に及ぶ大掛かりなものでした。

 近世だけを見てもわかるとおり、時代時代における多くの方々の御開山敬慕の思いによって永平寺境内伽藍、寺域は護られてきたのです。



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