懐奘禅師御一代 ~光明に照らされる~


 懐奘禅師さまは、鎌倉時代初期の建久9年(1198)に京都の藤原氏の一族である藤原伊輔(これすけ)の子として出生されました。18歳の時に比叡山(滋賀県)に入って、横川尊勝院の円能(えんのう)法印の元で剃髪(ていはつ)すると、21歳の時に比叡山の戒壇院で菩薩戒を受け、僧となられました。
 比叡山では、仏教教学の基礎を学ばれた後、特に『摩訶止観(まかしかん)』という天台宗の坐禅に関する文献を学ばれるなど、非常に学業に熱心だったと伝えられています。

 比叡山で学ばれていた頃、お母さまを訪ねたところ、
「私がそなたを出家させたのは、僧侶として上の位を得て、貴族達との関わりをして欲しいと思ったわけではありません。自分の名誉のための学びをせず、黒衣を着て背後に笠をかけ、歩いてどこまでも学びに赴きなさい」
と仰ったとされます。懐奘禅師はお母さまの思いを受け取ると、それ以降、二度と比叡山に戻ることはありませんでした。

 比叡山を下りられた懐奘禅師は、まずは浄土教の教えを学びました。特に証空(しょうくう)上人を尋ね、その奥義を聞きましたが、浄土の教えではまだ不十分だと思い、今度は奈良の多武峰(とうのみね)に行き、禅宗の一派である達磨宗の覚晏(かくあん)上人の下で学びました。

 達磨宗で、懐奘禅師は『首楞厳経』というお経を学んでいた際に得るところがあり、その境涯は覚晏上人からも認められました。そして、中国での留学を終えた道元禅師(1200~1253)が帰国されたと聞くと、懐奘禅師は京都東山の建仁寺を尋ねました。懐奘禅師は当初、御自身がそれまでに学び得たことに自信を持っておられたようです。道元禅師とは数日問答をされ、最初こそお互いの見解は一致していましたが、徐々に道元禅師が深い教えを開示されると、懐奘禅師はそれまでの学びが全く通用しないことを知り、弟子入りを願いました。
 しかし、道元禅師はまだ自分のお寺を持っていないことを理由に、またの機会に来るよう促したのでした。

 道元禅師が京都深草に興聖寺を開かれると、文暦元年(1234)、懐奘禅師は改めて弟子入りを願います。道元禅師と懐奘禅師の信認は一層深まり、弟子入りの翌年、道元禅師はお釈迦様から代々の祖師方に受け嗣がれてきた仏祖正伝菩薩戒を授けました。
 嘉禎2年(1236)の除夜、道元禅師は懐奘禅師を首座(修行僧達の第一座)に任命すると、更に「秉払(ひんぽつ)」と呼ばれる儀式を行うように指示しました。この儀式は住職に代わって、払子という法具を持って説法することです。この頃から、興聖寺にいた修行僧達は皆、懐奘禅師を「教授師」として仰ぎ、指導を受けたとされます。


■道元禅師の側近としての歩み

 懐奘禅師は、道元禅師の下では侍者(住職の身の回りのお世話をする役目)を務め、典座(修行僧達の食事を用意する役目)なども兼ねたとされます。どのお役も、非常に熱心に務められました。
 道元禅師は天福元年(1233)以降『正法眼蔵』を執筆し、また修行僧達へ開示(示衆)されました。その中、懐奘禅師は『正法眼蔵』の書写を行うようになり、例えば永平寺で所蔵する懐奘禅師御真筆の『正法眼蔵』「仏性」巻を見ると、一字に至るまで丁寧に書写され、しかも、道元禅師が書き直された、推敲の箇所までも残さず反映して書写されており、当時の『正法眼蔵』執筆・編集の様子を伝える貴重な写本となっています。
 更に、道元禅師が興聖寺・大仏寺・永平寺で行った説法(上堂)の時には、侍者としてその言葉を留め、兄弟弟子である詮慧禅師や、弟子の義演禅師(後に永平寺四世)とともに語録『道元和尚広録(永平広録)』の編集も行われました。道元禅師の教えが現代まで伝えられたのは、まさに懐奘禅師の献身的な書写作業などがあってのことなのです。

 懐奘禅師は常に道元禅師のお側にいて、寺院や僧団の運営を支えました。
 建長4年(1252)の後半、道元禅師が体調を崩されると、翌年の7月、永平寺を譲られ、懐奘禅師が二代目の住職となられました。8月に入ると、永平寺を寄進した波多野義重の勧めで、道元禅師は京都に上って療養することになりました。懐奘禅師はその際にも随行されています。
 しかし、8月28日の夜半、治療等の甲斐無く、道元禅師は俗弟子・覚念の私邸で入滅されました。懐奘禅師は余りの悲しみに、一時間ほど気を失ったといわれます。その後、義重の助けもあって、道元禅師のご遺体を荼毘に付すと、懐奘禅師は御遺骨を拾い、永平寺まで持ち帰られ、葬送の儀式を行われ、永平寺の西隅に塔を建てて納骨されました。その塔は後に、承陽庵(今の承陽殿)と呼ばれています。
 懐奘禅師は道元禅師が入滅された後も、永平寺の方丈に道元禅師の真(お姿を描いた像)を安置すると、生前にお仕えしていたようにお世話をされ、孝順の誠を尽くされました。


■後進を育てる

 それまで道元禅師の下で修行していた僧達は、そのまま懐奘禅師に弟子入りしました。中でも、懐奘禅師と同じく達磨宗で学んだ徹通義介禅師(1219~1309)は、後継者として育てられ、文永4年(1267)、懐奘禅師が70歳の時に病を得ると、永平寺を義介禅師に譲られました。
 ただし、義介禅師が文永9年(1272)に永平寺の住持を退くと、懐奘禅師は再度住持となりました。そして、その頃、永平寺で修行していた太祖瑩山紹瑾禅師(1268~1325)を末後の小師(最後の弟子)として、正式な比丘にしました。瑩山禅師は懐奘禅師から親しく濃やかに教えを聞かれたことを『伝光録』第五十二祖章で伝えています。


■御入滅

 懐奘禅師は弘安3年(1280)4月に病を発すると、8月には改めて、義介禅師へ道元禅師から伝えられた御袈裟を伝えました。また、御自身の葬儀について遺言され、自身は「8月28日に入滅された道元禅師への毎年のご供養を行う期間中に亡くなる」ことを示し、更には自分のための塔を建てることをせず、道元禅師の傍らに埋めて欲しいと願いました。
 その言葉の通り、懐奘禅師は弘安3年8月24日に83歳で入滅されました。
 私どもは、750回の大遠忌を通して、懐奘禅師を偲び、慕い、ご生涯の学びを通して自他共なる光明に照らされましょう。

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